A-2 町立八丈病院:赴任するまで

A-2 町立八丈病院:赴任するまで

 初めて診療のために八丈島を訪れたのは、私が25才、医師になって2年目のことと思います。外科の医局に入局後、まず大学病院の病棟勤務の研修医として6ヶ月間勤務しました。国家試験の知識はあるものの、実際の医療に関しては何も分からない状態で、採血・点滴当番、手術までに必要な検査の手配や書類の用意、手術室では手洗いの仕方・ドレープの掛け方・鉤引き・邪魔にならない術野の血液拭き、術後は標本整理、患者さんのベッドサイドでは血圧・脈拍・尿量・呼吸状態の人間モニターとなり、カンファレンス、抄読会、カルテへの記載などなどなど、まともに食事をする時間もなく、地下鉄で一駅の部屋にも帰れず、ほとんど役に立たないのに病院に詰めているような生活を送りました。

 病棟研修6ヶ月後、医局の仕事の一環として、太平洋上で船医として3ヶ月間を過ごしました。太平洋上で操業している遠洋マグロ漁船への洋上補給を目的とするジャパンツナ2号という5000トンほどのタンカーに乗船して、漁船との会合時に医療サービスを提供しました。私の場合はハワイ・マウイ島を出航して、ロサンジェルス港に数日寄港後、広島・因島へ戻るという航海でした。

 太平洋から戻ってから、町立八丈病院で手術があるときに、手術の手伝い(鉤引き)要員として医局の先輩と数回同道しました。当時まだ羽田空港は以前の古い建物で、1階出発ロビーから建物の外に出てすぐの駐機場からYS11という国産プロペラ機にタラップを登って乗り込みました。現在八丈島に運行中のジェット機B737あるいはA320よりYS11は小さく軽いので、巡航中も上下によく揺れ、プロペラの振動が強く、到着後もしばらく体が痺れた感じになったことを覚えています。また着陸時に、風向きによっては機体を大きく傾けて斜めに島に侵入することがあり、窓一面が海、次いで島の地面から滑走路となって、タッチダウン直前に鋭く水平に戻るというスリリングな場面を未だに思い出します。